「辛い」の言葉を手放す~中村天風の教え:生きていることを喜びと感謝の気持ちに変える

身体が痛いと、つい「痛い、痛い」と言ってしまいます。

肉体的な痛みを感じる場合、それが強かったら、なおさら「痛い、苦しい、つらい」と言いたくなったりするし、実際口にします。

私の母がそうでした。

毎日毎日、「背中が痛い」と言っていました。

実際痛いのだろうから、そういうのは仕方がないのですが、私はその「痛い、痛い。」という言葉を聞くたびに、自分が責められているように感じたものです。

人間は、肉体的な痛みに耐えられないように思います。

人から聞かれたら、そのまま痛いのであれば痛いと言ってもいいでしょう。

でも、聞かれてもいないのに言うのは良いとはいえないと思います。

「痛い、苦しい、辛い」それをそのまま言ってしまってはよけい苦しくなります。

本当は苦しみから解放されたい、楽に、幸せになりたいはずです。

苦しいところに目を向けるのではなく、「あるもの」に目を向けると、苦しみから解放されるのです。

中村天風が読んだカントの伝記

苦しみを喜び感謝する姿勢に変えていくというお話です。

中村天風の著書の中に、哲学者カントの伝記に感銘を受けたことが書いてあります。

長くなりますが、引用します。

「カントは、生まれたときには、貧しい、馬の蹄鉄打ちのせがれに生まれた。そうして、因果なことには、せむしで、くるっと背中に、団子みたいなこぶがあった。ゼイゼイ喘息で、いまにも死にそうな子供だった。

それでも、十七までくらいは、毎日、苦しい、苦しいとのた打ち廻って、死なずに生きていた。

あるとき、医者が来た。親爺がカントの手を引いて、どうせダメだろうと思うけれども、せめて、この、苦しさだけでも軽くしてやろう、と医者の前に連れて行った。

そのとき、医者の言った一言が、カントをして、あの世界的な偉い人にしてしまったんですよ。

医者は『気の毒だな、あなたは。

しかし、気の毒だな、と言うのは、体を見ただけのことだよ。

体はなるほど気の毒だが、苦しかろう、辛かろう、それは医者が見てもわかる。

けれども、あなたは、心はどうでもないだろう。あなたの心は、どうでもないだろう。

そうして、苦しい、辛い、苦しい、辛いと言ったところで、この苦しい、辛いが治るもんじゃないだろう。

ここであなたが、苦しい、辛いといえば、おっかさんだって、おとっつぁんだって、やはり苦しい、辛いわね。言ったって言わなくたって、何もならない。

ましてや、言えば言うほど、よけい苦しくなるだろ、みんながね。言ったって何もならない。かえって迷惑するのはわかっていることだろ。

同じ、苦しい、辛いと言うその口で、心の丈夫なことを、喜びと感謝に考えればいいだろう。

体はとにかく、丈夫な心のおかげで、お前は死なずに生きているじゃないか。

死なずに生きているのは、丈夫な心のおかげなんだから、それを喜びと感謝に変えていったらどうだね。

できるだろう。そうしてごらん。

そうすれば、急に死んじまうようなことはない。

また、苦しい、辛いもだいぶ軽くなるよ。そうしてごらん。一日でも、二日でもな。』

家に帰ったカントは、いま医者にいわれた言葉を考えた。

じっと考えているうちに、そうだ、あのお医者の言った、心は患っていない、それを喜びと感謝に振り替えろといったけれども、俺は今まで、喜んだこともなければ、感謝したことも一ぺんもない。

ただ、朝起きると、夢の中でも苦しかった、辛かった、そればかりが、俺の口癖だった。

冗談にも嬉しいとか、有難いとか言ったことはない。

それを言えと言うんだから、言って見よう。言ったって損はないから言ってみよう。

カントは父親に言います。『痛い、苦しいと考えても、治らないことを考えるのは止めるんだ。

とにかく、止めるだけ止めてみる。

そうして、ありがとう、嬉しい、と一生懸命言うんだよ、とそういうから、嬉しい気持ちになるかならないか、わからないよ。

でも、そういっている間、痛い、辛いといわないだけでも、おっかさん、おとっつぁんたちは心配しないだろ。』

それから、カントは医者に言われたことを考えるだけで、喜びと感謝の毎日だった。

カントは心と体と、どっちがほんとうの俺なのか、考えてみようと思った。

少しでも人の役に立つのではないか。

このあいだまで、ただ、辛い苦しい、辛い苦しいで、何にも人の世の中のことなんて、考えてみたこともなかった。

そうだ、了見を入れ替えて、少しでも人の世の中のためになることを考えよう。」

このカントの伝記を思い出した中村天風は、自分も病気のことばかり考え、自分のことを嘆いていたことに気がつきます。

それから、「ただ、有難い、嬉しいと思うことに努めただけで、ぐんぐん気持ちの中が洗い清められるようになった。」というのです。

同時に自身の肉体が、どんどん治ってきたということです。

「人間には、辛がったり、苦しがったりするほうの自分と、喜びと感謝で生きられるほうの自分とがあります。

心の中の、もう一人の自分を探し出して、たったいまから、心の中は、永久に、喜びと感謝でいっぱいなんだ、という気持ちで生きてゆかれれば、その結果、どうなるか。

事実がきっと、あなた方に大きな幸福というお訪れで持って、お応えすると思います。」と結んであります。

高い心の境地

感謝する心は人を幸せに導くといわれます。

人間は否定的な感情に流されるのが常です。

苦しい状況で「嬉しい」とか「有難い」とはいえないかもしれません。

この本にありますが、「苦しい」「辛い」と言っていも、何も変わりません。

変えたいと思ったからカントは医者の言うとおり実行したのです。

カントが「苦しい、辛い」と言う替わりに「嬉しい、有難い」といった当初は、多分、嬉しくも有難くもなかったかもしれません。

でも、「嬉しい」「有難い」と言っている時の意識の中には「嬉しい」「有難い」の言葉しかなかったと思います。

そう言っているあいだは、「苦しい」「辛い」と言う言葉は消えているのではないでしょうか。

「嬉しい、有難い」と言う言葉と「苦しい、辛い」と言う言葉は同時には頭の中には、存在できないからです。

だから、「嬉しい、有難い」と言っているときは、「苦しい、辛い」が消えるのです。

気持ちを「苦しい、辛い」から喜びと感謝の気持ちにすぐには切り替えられないのが、普通でしょう。

でも、視点は変えることができます。その視点の先にある感情を選び直すことができます。

今までと同じことをしていてもよくならないことはわかっています。

違う言葉を、心が軽くなり明るくなる言葉を選んで入れ替えてみることができます。

医者の言葉を聞き、カントは両親に苦しみを与えていたことに気づいたのでしょう。

自分が「痛い、苦しい」と言うことで両親を悲しませていたことがわかったのでした。

愛する両親を苦しめてはいけないと思ったでしょう。

そうしたら、自分のことだけでなく、両親のことも考えることができ、視点が複数になり違う見方ができるようになったわけです。

今までは自分ばかりだったけど、両親の立場に立てたということではないでしょうか。

「もう一人の自分」と言う表現が出てきます。

「もう一人の自分」というのは自分の命です。

生まれてから今までずっと寄り添って見守ってきてくれた自分です。

自分の中にいる「もう一人の自分」の存在を感じると感謝と満たされた気持ちになれ、すぐに仕合せになれるとありました。

お読み頂きありがとうございました。

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