「エゴ」という「悪魔」がささやく「目標」や「夢」に用心すべし

エゴとは恐怖と欠乏感

エゴとは、自分さえよければいいという自分中心的な考え方であるといえます。

反面、私たちは自分さえよければ周りの人たちはどうでもいいと言い切れない心も持っています。

人間の心に「天使」と「悪魔」がいるとしたら、エゴは悪魔でしょう。

欲望を満たすために自分の中の良心を否定するようなもの、つまり悪魔といってもいいのではないかと思います。


これまでは、「夢」や「目標」というきれいな言葉で表現してきた「欲」、つまり欠乏感を早く満たしたいと思い、あせってきました。

欲がいけないと完全に欲を否定しているのではありません。

欲は人間の行動の原動力になってきたのですから、すべて否定するものではありませんが、欲望が欠乏から来るものであったならば良くないわけです。

足りないから奪いたいという欲から来るものは、欲しいものは手に入ったけど、まだ足りないという思いを持ち続けます。

まだまだ足りないという感覚のまま、満足することはないのです。

エゴは欠乏感です。

欠乏感から生じる「目標」や「夢」は、悪魔がささやく「目標」や「夢」なのではないかと思い至りました。

「足りない」「欠けている」という思いがいつも心の中に渦巻いていて、それを満たすものが「目標」や「夢」だと勘違いすることがあります。

その「欠乏の自分」=「エゴ」でした。

しかし、エゴは自分の中にいて、自分を翻弄しているものだと気づいたら、「エゴ」を客観的に見ることができました。

思い通りにならないのは、環境が悪いから、運がないからと思ってきて、そのために怒り・不安・恐れ、そういう感情がわくのが常でした。

しかし、目標や夢という名の欠乏を追いかけるのは、エゴがなせるわざではないかと気づきました。
 

元来、人間は穏やかな満ち足りた感情を持って生きている存在なのではないかと気づきました。

幼い頃は、「私には〇〇が足りない。〇〇を手に入れなければならない。」「次は△△をしなくてはいけない。」と思ったことはなかったのです。

幼い頃は、目の前のことに夢中でした。遊びやものに心が集中していたように思い出します。

周りのことや、先のことを考えて、今に集中できないということはなかったのでした。

それが心穏やかな状態ではなかったのかと思います。

いつの頃からか、欠乏感と急きたてられる感情が心を支配してきたのでした。

その穏やかさを打ち壊すのが、エゴという悪魔であります。

いつもエゴに翻弄され、怒りや恐れの感情のままに生きてきたように思います。

本来の穏やかな心を取り戻す

しかし、エゴの言いなりになるのは間違いなのです。

本来持っている穏やかな心の状態に戻るのが人間のあるべき姿ではないでしょうか。

エゴに対抗するには、私はエゴに振り回される存在ではないと自覚することです。

怒り、不安、恐れの感情に囚われたら、「私は何を恐れているのだろう?」と自問してください。

私はエゴという悪魔に支配される存在ではないと決めることです。

エゴがでてきたら、自分を客観的に見る習慣をつけることです。

エゴという悪魔は、人間に恐怖心や欠乏感を与え、ネガティブな状況に陥れる存在です。

エゴに振り回されないように、エゴという悪魔にだまされないようにしなければならないと思うのです。

人間は怒り・不安・恐れの感情の渦に巻き込まれ、翻弄されるような弱くおろかな存在ではないのです。

お読み頂きありがとうございました。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 潜在意識へ
にほんブログ村

スポンサーリンク
スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク