遠慮するとは
こちらは常識的な範囲(極端に高額なものでない)のつもりで、お礼の品を差し上げようとしましたが、頑なに拒む人がいます。
お礼の気持ちだから受け取ってもらいたいのですが、かたくなに受け取ろうとしない姿勢は不愉快に感じてしまいます。
「遠慮するって、うざい」と思い、いらだってしまいました。
頑なに拒んで受け取らない人は、遠慮するのがあたりまえで、謙虚でなければならないという考えなのかもしれません。
相手がお礼の気持ちで持ってきてくれたものを受け取らないのは、こちらを拒否しているの?と思われても仕方がないのでは、と思います。
遠慮せずに人の好意は受ければいいんじゃないかと思いますが…。
極端な遠慮は、人間関係に摩擦を生むように思われます。
それに遠慮と謙虚は違うものではないかとも思います。
遠慮は次のように始まります。
「私のようなものが~」
「私にはもったいない~」
と自分を否定する言葉ではじまり、辞退するという行為に出ます。
相手の好意を受け取らないことは、相手から差し出されたものに私は値しませんと言っているようなものです。
遠慮を覚えたのはいつ?
知り合いの妊婦さんから聞いた3歳の息子さんの話を思い出しました。
3人兄弟の末っ子で、その男の子の下に赤ちゃんが生まれるといいます。
その子にお母さんは「赤ちゃんの世話をしないといけないから、今までのようにしょっちゅう抱っこできないかもしれないよ。」と言ったそうです。
その男の子は「そんなに抱っこしなくてもいい。でも、具合が悪い時は抱っこしてね。」と答えたそうです。
お母さんはそれを聞いて不憫に思えて「これからも抱っこするよ。」とその子に言ったというのです。
まだ3歳なのにお母さんに遠慮している?
生まれてくる弟か妹に遠慮しているのでしょうか。
本来人間は、赤ちゃんの頃、誰に遠慮することなく大声で泣いて自分の欲求を満たしていました。
赤ちゃんは、お母さんに悪いから大きな声で泣くのをやめようと思わないはずです。
私たちは幼い頃、弟か妹が生まれた時に遠慮を覚えたのかもしれないなと感じました。
遠慮するというのは「いえいえ、私はそれほどの人間ではありません。」と自分を卑下しているように思えます。
自己卑下しているようで、自分を低く見せています。
自分を低く見せることに何のメリットがあるのでしょうか。
相手より下に入ることで、拒絶しないでくださいと相手にお願いしているのではないかと感じました。
遠慮とは、相手からの拒絶を恐れる気持ちから来るもののように思われます。
しかし、本来人間は遠慮という感覚はなく、周りの思惑を推し量ることのない天真爛漫な存在だったのではないでしょうか。
遠慮と謙虚の違い
遠慮するというのは、謙虚さに通じるという考えがあります。
控えめに振舞うという点では遠慮と謙虚は似ているように見えます。
謙虚は美徳という価値感から人は前に出ないで、控え目にするのがよいとされるのでしょう。
謙虚というのは、対人関係だけではなく、本来人知の及ばないものに対して畏敬の念を示す態度だともいえます。
本来、謙虚であるべき対象は、自分より偉い人や人知の及ばないものに対して使う言葉のような気がします。
宇宙や自然などに対しても使うというような言葉ではないでしょうか。
遠慮をなくし心を開く
遠慮することは「自分には ~ はふさわしくない」という思いを持っていることと同じではないでしょうか。
その価値に値しない自分という位置づけです。
封建時代で身分制度がある場合にふさわしい言葉に感じます。
序列にふさわしくないものは受け取れないというような響きです。
一般的に遠慮せずに人の好意は受けるものではないでしょうか。
そして、その好意を受けたらお返しをする…。
または、お返しができない場合であったら、別な人に自分がしてもらったような好意を送ればいいのではないでしょうか。
遠慮は自分を低めるものであって、かつ他人との関係をよくするものではないということです。
遠慮によって、相手との関係性はそれ以上発展することはないように思えます。
相手の好意を受け止めるというのは、やさしさの表れでもあります。
遠慮することなく心を開いて他者とのかかわりを持てば、何か新しい関係ができるのではないでしょうか。
自分がもっと他者とかかわることにより、自分または相手も得るものが多いはずです。
さらに言えば、遠慮する人は自信がなく、閉鎖的に見えます。
自分にはふさわしくないからと、相手の申し出を断る人は将来自分の望むものを自ら手にすることができるのでしょうか。
欲しいものを相手が差し出しているときに、常にそれを断るのでしょうか。
率直に〇〇が欲しいと言う本音を出すことは、人間として恥ずかしいことではなく、素直ではないでしょうか。
お読み頂きありがとうございました。