エゴは自己中
自分勝手な人はエゴが強いといえそうです。
エゴは自分さえよければいいという自分中心の考え方なので、他人の迷惑などどうでもいいという自己中な人は、そういわれても仕方がないでしょう。
エゴはまた、我が強いとも言われます。
「我」は、自分自身に執着する心です。
エゴは自分さえよければいいという思いなので、どんな時も自己中であり、自分に利益があったり又は不利益になりそうだと判断したら衝動的な言動をとります。
私の中にはエゴがあるけど、エゴを押さえる自分もいると言われる人もいらっしゃるでしょう。
エゴを押えようとする自制心があるということです。
エゴと自制心は自分の中に同居しており、エゴはわがままなので、その時の感情で自制心の自分を振り回そうとする意識だともいえます。
エゴは恐怖心
私たちには、経験から出来上がった「~でないといけない」「こうあるべき」「~しなければならない」という価値観があります。
エゴの価値観が強いと、例えば自分に不利なことや得たいものが手に入らなかったとか他人よりも優位に立てないことが起こると、不満や怒り、嫌悪などのネガティブな感情が湧いてきます。
人間の感情は2種類あるといわれます。
愛の感情と恐怖の感情です。
エゴは恐怖心から来るものです。
エゴがあると他人と衝突したり、トラブルになったり、上手くいかないことが出てきます。
エゴの根底にあるのは、自分の安全や安心だけを守れればいいという自分中心の恐怖心だからです。
この世は、自分だけで生きていけるものではないのですから、自分も大事であるのと同じく、他者も大事であることを思い出さなければなりません。
エゴが強いと、相手の価値観を認めるという姿勢を忘れてしまいます。
「他人の価値観を認める」ということは、その人の考えに同意しなさいということではなく、自分に考えがあるように他人にもその人なりの考えがあるということを認めるということです。
自分を犠牲にすることなく、他者と共生していくことを思い出さなければならないでしょう。
自分の中にネガティブな感情を起し自分を翻弄させるエゴがあったら、そのエゴを手放すことが、穏やかな心を取り戻す一歩になります。
思う通りにならなかったら、怒り・不安・恐れというネガティブ感情が湧くのは仕方のないことと思ってきましたが、エゴを手放すと感情に翻弄されなくなります。
穏やかな気持ちを不意に打ち壊す感情が出てきてしまったら、その打ち壊しするものが「エゴ」です。
不意に訪れるネガティブな感情に振り回されるままでいいのでしょうか?
怒りや恐れや嫉妬が出てきたら、「何を私は恐れているの?」と自分自身に問いかけてみてください。
エゴのない本来のあなた
人間の感情はセンサーであり、その時の心の状態を教えてくれるものですから、すべての感情は必要なものです。
怒り、不安、恐れのネガティブ感情を、一切感じてはいけないと否定するものではありません。
しかし、常にネガティブ感情に支配されていることが多いとしたら、エゴを小さくすることを意識してみてはどうでしょう。
エゴが出てこないあなたが、本来のあなたではないでしょうか。
私たちのエゴは、自分や他者を裁いたり、攻撃したり、争ったり、許さない心をつくります。
安心感でなく混沌とした、豊かさではなく貧しさを体験することになります。
エゴの本質は恐怖心ですから、エゴの目的は与えることではなく、奪うことです。
でも、エゴは自分勝手ではありますが、私自身にとって良いことをやっていると思っているわけですから、完全には否定できないものでもあります。
いうなれば、浅はかであるけど、憎めない存在であるような気がします。
エゴも自分の一部であると意識した上で、エゴに振り回されない自分になることが必要です。
エゴがあると思ったら、自分自身を冷静に見ることができ、私とエゴを切り離せます。
エゴが出てきたときは、エゴというフィルターがかかった状態でものごとを見ています。
エゴが持つ恐怖心から、他人やものごとを解釈しています。
恐怖心の反対は、愛の感情です。
愛の状態からものごとを見ると決めるとします。
恐怖心と180度反対の立場から見るということはすぐにはできないかもしれませんが、ものごとや他人の「いいところ」を探すと意識してみます。
ものごとはすべて両面を持っています。
悪くない、プラスなところ、それがあるから助かっているところとか、ニュートラルな見方を意識してみるのです。
他人のエゴを受け止める
人は、それぞれの価値観や思い込みでものごとを見ています。
他人と同じ風景を見ていても、違う風景を見ているのではないかと思うほど、ものごとの受けとめ方や解釈の違いに驚くことがあります。
年齢を重ねていくと、自分の信念が強化されて他人の違う考えを受け入れがたくなります。
例えば、順番は絶対、ABCDEでなければならないと思っている人がいるとしたら、DCABEと並べる人は受け入れられないということになります。
それを「ただ、A,B,C,D,Eがあればいい」と思えたら、順番を気にしない人とも仲良くやれるのではないかと思うのです。
違う価値観を持つ相手はその人なりの知恵を持っており、こちらが相手の言葉を聴く耳を持たなければその人の知恵を知ることはできません。
自分にあるエゴと同じように他人のエゴも受け止められたら、他人へのいらだちや他人との不和というものが少なくなるのではないでしょうか。
嫌な出来事は罰ではない
エゴな自分を意識すると、今まで同じようなパターンの反応を繰り返していたことに気づくでしょう。
同じような状況で落ち込むということがなかったでしょうか。
ネガティブな感情に襲われている時、うまくいかないのは自分が悪いからだと思うことがあります。
自分のせいでこんな最低な状態になってしまったと責めることがあります。
エゴな自分も、自分なのです。
自分のエゴを受け入れつつ、他人のエゴもあると受け止め、違う捉え方もできると思えれば、感情に振り回されることがなくなるのではないでしょうか。
違う考え方を受け入れると、感情の変化を体験するでしょう。
別にそんなにカリカリすることでもなかったと思えてきたりします。
大事なことは、どんな嫌な出来事も自分への罰と考えないと決めることです。
こんなことになったのは、全部自分のせいだと思い込まないことです。
「こうでなければいけない」「~すべき」という強い思い込みを疑ってみてください。
固く握り締めているこぶしを緩めてみてください。
あなたはあなた自身に寛容になることです。
そのために自分を許すことです。
自分を許したら、他人も許すことができます。
エゴな自分に気づくことだけでも、エゴを客観的に見ることができます。
客観的に見れると自分とエゴを切り離すことができる、つまり、捉われなくなります。
お読み頂きありがとうございました。