他人にやさしくしていいの?
「他人にやさしくするっていいことなの?」と聞く人がいます。
やさしいイコール甘やかしと思い、相手を甘やかすとその人のためにならないという考えがあるようです。
また、相手の考えとか人柄がよくないと思っている場合、やさしくするとその相手を肯定しているようで嫌だという理由もあるようです。(そもそも、どちらかと言えば嫌いな相手にやさしくしようとは思わないのが普通でしょうけど。)
どちらももっともな意見に思えます。
私たちはみな、やさしくされるとうれしいです。
単純に考えてそうですから、やさしくしてもいいのか?と聞かれることに、はじめ「?」という感覚になりました。
やさしくするの意味は?
やさしくするの反対の行為を考えてみます。
それは「冷たい」や「厳しい」ということになります。
たまに、厳しくして欲しいという人はいます。
厳しくするというのは、自分にはわからない欠点を指摘してもらうと自分の成長にとって良いことだという意味があるのでしょう。
しかし、冷たくして欲しいという人はいるのでしょうか。
一般的に他人から冷たくされたり、厳しくされるのはイヤでしょう。
やさしくするの反対は、嫌なことをされるということになるのではないでしょうか。
嫌なことをされるとは、例えば、他人からつらく当たられる、意地悪をされる、ひどいことをされる、恐いことをされる、無視される、だまされる、利用される、悪口を言われる…。
こういうことをされてうれしいと思う人はいないでしょう。
新約聖書には黄金律の教えがあります。
自分がして欲しいと思うことを他人にしてあげるという教えです。
マタイ7:7~12
「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見出す。たたきなさい。そうすれば開かれる。誰でも求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれる。あなた方のうちに、子供がパンを求めているのに、石を与える者がいるだろうか。あるいは、魚を求めているのに、蛇を与える者がいるだろうか。…だから、何事につけ、人にしてもらいたいと思うことを、人にもしてあげなさい。」
「パンを求めている人にパンを与え、魚を求めている人に魚を与える」ことが人にやさしくするということになるのです。
やさしくしたら相手がダメになる?
先ほど書きましたが、相手を評価していないのにやさしくしたら、その人を肯定するようで良くないという意見と、そもそもやさしくすると甘やかしになり、その人をだめにするのではないかという意見がありました。
他人にやさしくするとその人がダメになると思うのは、相手が欲することをしてあげるだけだとその人のためにならないと思うわけです。
相手が人にやってもらいたいと思うことが、本当は自分でやらなければならないことだったりします。
やりたくないから、代わりにやってもらえたらうれしいわけです。
その人がやらなければならないことをやってあげると、その人からはやさしい人だと思われるでしょう。
何でも他人がやってくれると思ったら、その人は怠け者になってダメ人間になるから、だから甘やかしになり、やさしくしてはいけないと考えます。
その人が成長することを第一にすれば、その人がやるべきことはその人がやらなければいけないわけです。
自分でやらないと知識やスキルが身に付かないので良くないといえるかもしれません。
しかし、その人のやるべきことを別な人がやってくれるということは頻繁に起こることでもないわけですし、何から何まで他人が自分のことをやってくれるというのは現実に想像しにくいものです。
人にやさしくするのはその人のためにならないという考え方の人は、やさしくする=甘やかす→ダメ人間になるという結果を予想するからでしょう。
評価できない相手にやさしくするのは、よくないという考えを持っている場合も同様です。
相手が未熟だとか、評価できないとして、やさしくできないというのは、こちらが相手をジャッシしている結果です。
私が嫌いだと思っているからやさしくしてあげないと言っているのと同じことです。
そもそも他人を批評することがいいとは言えないわけです。
自分の考えでジャッジしているからです。
親子の関係で見ると子供は親に従うものであると考える親がいるとしたら、その親の考えによりやさしくされる場合とされない場合がでてくるように思えます。
やさしくすることはその子を甘やかすことになるから、厳しく育てなければならないという考えを持つ親なら尚更です。
いずれにせよ、人にやさしくするのはその人のためになるのかと疑問に思うこと事体、おかしいように感じます。
他人にやさしくした結果を考える必要があるのでしょうか。
やさしくした結果、感謝されず逆に悪態をつかれたとか、予想した結果でなかったとしてもそれも受け入れるしかないように思います。
やさしくしたいと思い、そう実践したのであれば、普通感謝されて当然と考えますが、そうでなく、思っていた反応でなかったにせよ、いいのではないでしょうか。
その人にやさしくしてあげたかったから、そうしたというだけでいいように思えます。
相手からの感謝や周りの賞賛を受けたいがために他人にやさしくするのではないはずです。
自分がそうしたかった、結果を目的としてやさしくしたのではなく、ただやさしくするという行為をしたに過ぎないということではないでしょうか。
やさしくしたら見返りが必要?
人にやさしくすると、なめられるから何もしない方がいいという人もいます。
やさしくする=なめられると考えるため、何もしないことがいいということになります。
ものごとはやってみなければわからないことがあります。
何もしないことは何も変わらないことです。
やさしくすることに相手からの感謝や周りの賛辞というものを期待しますか?
その人にやってあげたいと思うことがあればやればいいし、そうでなければ何もしないということでいいのではないでしょうか。
相手を見て相手の話を聞いて、自分ができると思うことや、やってあげたいと思うことをただ単純にやったということでいいのではないでしょうか。
他人にやさしくした結果を考える必要があるでしょうか?
人にやさしくしたいと思ってそうすればいいのではないでしょうか。
他人にやさしくすると自分のやさしさがなくなるから人にやさしくしないと思う人がいるでしょうか。
自分のものを出すと少なくなる、あるいはなくなるから出さないという考え方で厚意を示さないというのでしょうか。
そんな人はいないでしょう。
「情けは人のためならず」ということわざもあるように、自分の厚意がめぐりめぐってまた自分に戻ってくるわけです。
出さなければ入ってはきません。
与えなければ与えられないということになります。
結果を考えることなく「自分がして欲しいと思うことを人にしてあげなさい」という黄金律を実践すればいいだけではないでしょうか。
お読み頂きありがとうございました。