生きる意味を探すのに意味があるの?
人生に迷うとき、何かに頼りたいという気持ちになります。
私もそういう時期がありました。
なぜ生きるのか、生きる意味をみつけたいと思ったのです。
何か答えを得られるのではないかと思い、近くのカトリック教会に通ったことがあります。
半年ほど聖書を教えていただきました。
日曜日の朝、教会に行き後ろの席でミサを参観させていただきました。
聖歌から始まり、神父さんのお話があり、また聖歌を歌う。最後に信者の方たちは「ご聖体」を頂く、そういう流れだったように覚えています。
ミサが終わった後、聖書を助祭さんが教えてくださったので、そこで聖書の言葉の意味をお聞きすることができました。
以前から新約聖書は読んでいたので、だいたい内容は覚えていました。
解釈は自己流だったので、お話が聞けてよかったでした。
でも、最終的に洗礼を受ける決断はできませんでした。
新約聖書に書いてあることはすばらしいと思います。
信者の方々からこういう表現はふさわしくないとお叱りを受けるかもしれませんが、「キリストはすごい」と思います。
しかし、私は神様と契約はできなかった。神様との約束を守れる自信がなかったからです。
将来、違う考え方になるかもしれない、ずっと信者でい続ける自信がありませんでした。
聖書の中に出てくる「契約の血」が強烈に頭に残っていたので、簡単に洗礼は受けられないと思いました。
洗礼は神との「契約」であるから、私は契約をこれから先の人生ずっと守り続けていくことはできないかもしれない。破ってしまうかもしれない、気持ちが変わってしまうかもしれないと考えたからでした。
「神との契約」は絶対のものであるということを教えていただきました。
洗礼を受けることは、この「契約の血」と同じ意味を持つものだと思います。
それほど覚悟のいることなのだと理解したので、そういう覚悟は自分にはできないと感じました。
末期がんの人でさえ命は輝いている
教会の助祭さんはホスピスに慰問活動をされ、定期的に末期がんの患者さんとお話をされていました。
「余命が限られベットで寝たきりになっている人でさえ、命は輝いているのです。」とおっしゃっていました。
その時、私はその言葉の意味がわかりませんでした。
元気になって生活できる可能性がほとんどないのに、なぜ「輝いている」といわれるのか。
母を看取ったことを思い出しました。
母は亡くなるまで意識がない状態が数週間続きました。
最後が近づいた夜、私は、一晩中母の手を握っていました。
私と母の関係には、幼い頃から私の中では複雑なものがありました。
実の親ですが、「お母さん、大好き」という子どもではなかったのです。
兄弟姉妹で親の最後は親がかわいがった子ではなく、親の愛情が薄い子供が看取るという話を聞いたことがあります。
まさしく私の場合もそうでした。
その夜、意識はないですが、体はまだ温かく力がありました。
母の手はあたたかでした。
ですが、夜が明けると少し体温が下がったような、伝わってくる熱が小さくなった感じでした。
昨夜の母の体の中には力が全身にあったように感じたのですが、一晩過ぎるとその力が体の中で小さくなってしまいました。
風船がしぼんでいくように、身体の力が小さくなっていました。
母の手も弱弱しく。全身にいきわたっていた力が体の中心で小さなかたまりになってしまったように思えました。
そして、最後はその力のかたまりがしぼんで無くなってしまったよう …。
心電図モニターの波形はなくっていました。
命が静かに消えていった瞬間でした ‥‥。
先ほどの助祭さんがおっしゃった「命は輝いている」と言う言葉と母の最期を思い出すと、「命は最後まで輝いている」という意味がわかったように感じます。
生きている人間は過去に生きるのでもなく未来に生きるのでもなく、「今、この瞬間に生きるもの」。
命がある限り最後の瞬間まで生きているという感覚を実感しました。
人は過去にとらわれ、未来をおもんばかります。
私たちは生きる意味があるのかと問います。
生きる意味がないと判断したら、そこで終わりにするのでしょうか?
人はいろいろ考え思い悩みます。
でも、そんな人間の考えることよりももっと大きなものに、私たちは動かされているような気がします。
生きる意味を考えながら見つける人もいるでしょう。
そういうことを考えることなく人生を終える人もいるでしょう。
私たちに与えられた「命」は自分のものでありながら、自分のものでないように感じます。
最後の瞬間まで瞬間瞬間を感じて生きるのが本来の姿なのでは、と思いました。
今がうつろになることなく、「今、ここ」を感じることが大事ではないかと思いました。
お読み頂きありがとうございました。