後悔するのは
後悔したことのない人はいないでしょうし、誰しも後悔の念を持ったことがあるでしょう。
「後悔先に立たず」ということわざがあります。
すでに終わってしまったことを後から悔やんでも遅いというのですが …。
それがわかっていてなぜ後悔するのでしょうか。
別な道を選んでおけば、今頃はもっといい思いができたのにと損得勘定から過去の行動を悔いているのかもしれません。
あの学校、あの会社を選んでおけば‥。あの人と結婚すればよかったとか。
過去の自分の判断や行為を悔やんでいるとしたら、それは今の自分が、過去の自分を未熟だと判断しているからでしょう。
昔の自分は思慮が足りなかったと責める気持ちが出てくるかもしれません。
そうだとしたら、過去の自分は愚かだったと結論付けていることになります。
今の自分が過去の自分を見て、判断や行動にダメ出しをしたとします。
過去の時点での自分の決断や行為を批判しても、その時の自分はそういう判断をしてそういう行動をとる道が正しいと思ったし、またはそうするしかなかったということを忘れているのではないでしょうか。
その瞬間は完璧
その時点での自分はその時点で「完璧」であったといえます。
「完璧」というのは、瞬間瞬間の自分のその状態がベストであるということです。
だまされて間違った判断を下してしまったと後からわかっても、その時はその判断がベストであると思ったことを忘れているのではないでしょうか。
悔やむのは、後から振り返ったからであり、そのときはその判断が正しいと思ったわけです。
気づける自分だったらその時点で気づいているはずですから。
「完璧」ということを考えてみます。
植物でもそれぞれの「完璧」があります。
例えば、桜の木を思い浮かべてみてください。
つぼみの状態の桜の木があるとします。
つぼみである状態は不完全でしょうか?
完璧でないといえるでしょうか?
咲いている桜と比べたら、不完全でしょうか?
つぼみは咲いていないから劣っているというのでしょうか?
そもそも比べること自体がおかしな話だと思うのです。
つぼみの状態は桜の木の成長の一時点であり、花びらが硬く包まれている時です。
時間の流れの中の一時点であって、その時の状態は欠陥や不完全というものはなく、それ自体完全なものです。
その時存在している姿そのものがあるだけです。
桜が咲いたときも同じです。
この時も完全な状態であり、花びらが開いている状態です。
つぼみであった時と同じく完璧なのです。
桜の花びらが開いて、咲いている状態であるということ、それがすべてです。
ですから、つぼみは劣っていて不完全で、満開の桜だけが完全であるとはいえないわけです。
つぼみも咲いている花もどちらも完全で完璧なのです。
それと同じように人間の私たちを考えると、昔の自分は劣っているとか不完全であったということはいえないのではないでしょうか。
知恵や経験が増えた今の自分が過去の自分を見たら、未熟だと思うかもしれません。
しかし、過去の自分は「欠陥」でも「不完全」でもないのです。
その時点で、完璧な存在なのです。
後悔は自分をさばくこと
後悔して、過去の自分はダメだと結論付けているとしたら、それは自分を裁いています。
自分を否定して、価値がないと思っています。
自分を嫌っているとしたら、自分が分裂している状態です。
自己否定している状態では、人生の進路をどちらに向けていいかわからない状態ではないでしょうか。
自分を否定する自分と否定されている自分を統合する必要があります。
後悔することは、有益なことなのかと考えてみてはどうでしょう。
行動し続ける
時間は未来から流れてきます。
時間は元に戻せません。
それが分かっているのになぜ後悔するのでしょう。
過去は変えられませんが、未来は変えられます。
私たちには未来がやって来るし、私たちは刻一刻と変化し続けています。
過去を悔いているのであれば、その場所に止まっているように思いますが、止まることはできません。
時はどんどん過ぎて行き、周りの世界は変化しています。
失敗と嘆いていたら過去に目が向いていて、今を感じることはできないのです。
人間は最後の瞬間が近づくにつれて、後悔の念が増すと聞きます。
それは行動した結果の後悔よりも、行動しなかったことに対して後悔するといいます。
「あれをしたかった」「これをしとけばよかった」と人生の終わりが近づくにつれ、悔やむといいます。
過去や現在、思った結果が出なくても失敗したとしても、行動した結果が出たわけですから、結果を受け入れ、未来に向けて改善していったらどうでしょう。
行動しなかったことを後悔することほど、辛いことはないのです。
時間は元に戻らないのですから。
未来に向けて行動し続けることが、大事ではないでしょうか。
お読み頂きありがとうございました。