公園でハトに餌をやっている人を見て:自然界の一員~人間は万物の霊長

公園で鳩に餌をあげたり、近所の野良猫にキャットフードとかやっている人を見かけます。

そういう人を糾弾しようと思って書いているのではないのですが、「何でエサをあげるんだろう?」と思うのです。

一人暮らしで孤独を感じる人なのかな?と思ったり、反対に家族はいるけど、疎外感を感じていたりして…と思ったり。

やはり、孤独から餌をやるという行為になるのかなと…。

そして、満たされない自己の承認欲求を満足させるため?と思ったりして。

鳩や猫に餌をあげる人の心理

先日近くの公園を通りかかったら、たくさんの鳩、おそらく30、40羽ぐらいはいたようでした。

その鳩たちがみなが地面をつついていました。

目を転じると、公園際の道路に軽自動車が止まっていて、運転席に男性がいるのが見えました。

「あー、この人が鳩に餌をやったんだ!」

「何で餌付けするんだろう?」

「鳩を自分の支配下に置きたいの?」

「人間の中では優位に立てないので鳩を代用にしたってこと?」

と意地悪な見方をしてしまいました。

自分が飼っている鳩でないのに餌を与えるのは違うんじゃないかと思い、その光景は見ててあまりいい感じがしませんでした。

以前、同じような光景を別な公園見たことがありました。

真っ赤なコートを着た年配の女性が鳩に餌をやっていました。

鳩に何か言いながら、餌をまいていました。

じっと聞いていると…

「がんばれよ!」と言ってました。

「これって、あのおばさんは自分自身に言ってるのかな?」と、そんなふうに聞こえました。

でも、「鳩は何を頑張ればいいんだろう?」とも思いました。

近所の野良猫に餌を与える人もいます。

これもダメだろうと思うのです。

衛生上よくないとか、近所迷惑とかの理由もあります。

鳩に餌を与えなくても、彼らは自らの食べ物は見つけることができるのではないでしょうか。

野良猫だって、自分の食料は自分で見つけることができているようです。

それに、飼い猫なのに2~3件おうちがあるようで、それぞれのおうちをまわってごはんをもらう猫もいるようです。

彼らは自ら食べ物を見つけることができるし、自ら生きていける力を持っています。

彼らはたくましいです。

人間が餌を与えるというようなことをしなくても大丈夫だといえるのではないでしょうか。

逆に、餌を与えることが彼らの生きる力を削いでいる気がします。

人間が野良猫や鳩をかわいそうだと思っているから、餌をあげているのでしょう。

なぜ、かわいそうと思うのでしょうか?

餌をやる人自身が、自分を鳩とか野良猫に重ねて見ているように思えます。

かわいそうな鳩や猫だと決めつけているような気がします。

人間も自然界の一員

新約聖書のマタイ25-34に

「いのちのために何を食べようか、また体のために何を着ようか、と思い煩うな。

‥‥鳥たちをつぶさに見よ。

蒔かず、刈らず、納屋もなければ、倉もない。

しかし、神は彼らを養ってくださる。

あなたたちは鳥たちよりもどれほど優れたものであろう。」

勝手な私の解釈ですが、「神」という言葉を「自然」と言い換えてもいいのではないかと思うのです。

鳩や猫もそうですが、野生の動物たちは自ら食べ物を探し生きていけるたくましさを持っています。

失礼な言い方かもしれませんが、鳩や野良猫が餌をやる人たちよりも、もっと生命力にあふれている存在ではないかと思いました。

餌をやる人が動物に自分を重ね合わせて、鳩や猫たちを勝手にかわいそうな存在だと思っているのなら、それはちがうでしょう。

本来私たち人間も他の動物たちと同じく、生命力あふれる存在です。

人間は万物の霊長といわれます。

人間も生命力あるエネルギー体です。

もともと人間はたくましい生命力の存在であり、キリストの言葉のとおり「優れたもの」であることを思い出したら、万物の霊長らしく気持ちが大きくなるのではないでしょうか。

人間が大きな存在だと思ったら、人間もかわいそうな存在ではないのです。

小さな自分が感じていた、孤独や寂しさは幻想なのです。

人間は大きな生命の流れの中にいる一員だと思えれば、孤独でないことに気づくでしょう。

生命の大きな流れの中に一人一人がいて、つながっているのですから。

お読み頂きありがとうございました。

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