自己批判を手放す:自分を追い込むより「今までやさしくされていた」ことに気付く

自己批判を手放す

他人に対する態度として「人に優しく、自分に厳しい」というのが良いように思われますが、実際には成り立たないように思います。

他人に優しかったら自分に優しいし、自分に厳しかったら他人にも厳しいものです。

自分に厳しいのはなぜでしょうか?

 

自分にやさしくすると、図に乗って怠けてだめになると考えているからですか?

目標を達成するには、厳しく自分を戒めなければならないと思っているからでしょうか?

子供の頃、親から言われたことを覚えていて、その厳しい言葉を自分自身に強いているのではないでしょうか。

「何でできない?!」 「だめじゃないの!」 「ちゃんとやりなさい!」「もっと頑張らないと!」…

大人になった今も、自分のダメなところを厳しく指摘しているとしたら、苦しいだけではないでしょうか。

自己批判のクセを手放してはどうでしょう。

自己批判は苦しいし、「あれもやらなければならない」「こうでなければだめだ」という完璧主義の思考から、息が抜けないのではないですか。

楽をしてはいけない、目的を達成するには苦しいものだという教えが自分を縛っているように思えます。

しかし、強制的に努力を強いても上手く行くでしょうか。

苦しみながらやることで自分は成長できるのでしょうか。

何とか苦しいながら課題をクリアしました。けど、また次の苦しい課題がやって来ます。

苦しみの後にはまた新しい苦しみがやってきます。

ガマンして苦しみを耐えたら、楽な状態になるからガマンしようと思いますが、「また失敗してしまった」「自分は能力がない」「ダメな自分」という状態がやってきます。

いつまでも苦しい状態が続き、楽にはなりません。

そうするうちに痛みに鈍感になるかもしれませんが、喜びや楽しさは感じられなくなります。

ちょっと立ち止まって考えると、自分を裁いていて、罰が与えられているのではないかと思うほどです。

自分を追い込んでいて、欠けているものを早く埋めたい、完全なものにしたいという気持ちが強いのではないでしょうか。

でも、満足するほどの結果が得られないから、苦しくなっています。

あせっているのです。

あせっているということは、今うまくいっていないから早く良くなりたいと思っているということです。

潜在意識はあせりの感情を体現しますから、うまくいっていない状態をずっと続けることになります。

頑張るのは、他人に認めてもらいたいためとか、足りないものを手に入れたいという気持ちから、来ているのではないですか。

「楽をしてはいけない」「努力しなければいけない」という価値観が強すぎて、心と身体がばらばらな状態になることがあります。

自分は不完全な人間という思いが強かったからかもしれません。

うまくいかない自分を受け入れる

ある時、「そんなに自分を追い込まなくてもいいんじゃないの?」という声が私の中から聞こえてきました。

スピリチュアル的に聞こえるかもしれませんが、人は心の深いところに、生まれてから今まで常に一緒にいてくれて、見守ってきてくれた「もう一人の自分」がいます。

「もう一人の自分」がいることに気づいたら、自分を批判したり裁いたりいじめたりしたくなくなります。

自分を裁き、罰してきたときも「もう一人の自分」はじっと耐え、私の要求に応えるため頑張ってくれ、優しく私自身に寄り添っていました。

自分に厳しすぎるあなたに置き換えて考えてみてください。

あなたは自分のことをずっとダメだと思ってきたかもしれませんが、ずっとダメだったわけではないでしょう。

他人から感謝されたことがあると思います。

大きなことでなくてもいいのです。小さなことでいいのです。

道を譲ったら笑顔を返されたとか、電車で席を譲ったら感謝されたり、落ち込んでいた友達の話を聞いてあげたら勇気付けられたと言われたり…。

そのときの穏やかな小さい幸せの感情を思い出し、感じてみます。

しゃかりきになって自分を追い込んで苦しいなら、自分に対してやさしい感情を持ってあげてみてください。

自分にやさしくしたくなると思います。

自分をほめて下さい。

やさしいことは弱いことではなく、やさしさは強者が持つ性質です。

お読み頂きありがとうございました。

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