カトリック教会に通った話
私は昔、この先の人生をどうやったら良いのか迷って、宗教に解決を求めたことがありました。
宗教を持ったほうが良いのだろうかと思い、近くのカトリック教会に通いました。
なぜ、キリスト教だったのか?
実家には仏壇があり、小さいころは手を合わせて拝んでいました。
なぜ仏教ではなかったのか?
仏教は、大日如来やお釈迦様とか仏様がたくさんおられ、また宗派もたくさんあり、何を取っ掛かりにすればいいのかわからなかったからかもしれません。
キリスト教も宗派もたくさんあるのでしょうが、イエス・キリストの教えという一つのことを聞けば何とかわかるかもと思ったからのように思います。
日曜日のミサに、後ろの席で見学という形で参加させていただきました。
その教会の80歳の助祭さんから聖書の教えを習いました。
その助祭さんは、話をする前に、どうして私が教会に来たのかわかるということをおっしゃり、迎えていただきました。
たぶん、私のように迷っている人がたくさん教会を訪れていたのでしょう。
キリスト教のお話を伺いました。
結局、半年くらい教会で学んだのですが、洗礼は受けませんでした。
洗礼を受けなかったのは、私が信者としての覚悟ができないと思ったからでした。
イエス・キリストは好き、だけど
教会に通う以前から、新約聖書は読んでいました。
新約聖書を読んで「キリストはすごい」と思っていました。
驚嘆するという表現がふさわしいかもしれません。
そのカトリック教会の助祭さんによる聖書の解釈を勉強会で教えていただき、感謝しています。
それまで以上にキリストのすばらしさを認識できてよかったでした。
新約聖書のマタイ10章34~36「平和にあらず、剣なり」が印象的でした。
「あなたたちは、私が地上に平和をもたらすために来たと思うな。平和ではなく、剣である。なぜなら私は、人をその父から、また娘をその母から、また嫁をその姑から、裂きわかつために来たのだ。つまり、人の敵はその家の者たちなのである。」とあります。
「家族仲良くすることがいいのに、なぜ、キリストは家族を裂きわかつために来たのですか?」と勉強会の参加者の一人が質問しました。
それは神と一人一人が向き合うため、神の教えは個人個人がそれぞれ神と向き合うことによって、その相手に伝わる。
そしてひとりひとりの個人が神の教えを実践していくためであるというような解釈を教えていただいたように記憶しています。
神の前では、父と子、母と娘、嫁と姑、それぞれ上下関係というものはないということでしょう。
信仰というのは神と己との関係で成り立つものであり、神の前では人間は同じ平面の上に立ち、神と対峙するものであるということと解釈しました。
キリストの教えは家族の関係を「切り裂く」ものであり、実際にキリスト自身が自分の両親や兄弟をそうやってきたのだろうと思いました。
新しい世界を作るためには、今までのものを壊さなければならないということだったのでしょう。
そうしなければ、神の教えを人々の心に浸透させることができないから。
今までの世界観を否定したということ。
そして、神の愛を説き、神の世界をつくる者として生きると決めたということ。
不遜ですが、キリストが布教を始める前はどんな状況だったのか想像すると、ドキドキするような感覚になります。
これからは私の妄想ですが、キリストははじめ、ものすごい孤独感を感じたのではないでしょうか。
ただ一人覚悟をして、今までの両親、兄弟を捨てたわけですから。
そして、神の子として生きる使命に従った。
人影のない果てしない土と岩だけの荒野が広がります。
砂埃が吹きすさぶ荒野にただ一人孤独にたたずむキリストの姿が頭の中に浮かび上がります。
しかし、その孤独感も長くは続きません。
孤独感から確信に変わった。
孤独ではない「神の子」として生まれ変わったキリストが私の頭の中に現れます。
今までの世界観を変えるには強烈なエネルギーが必要なんだろうと、驚嘆するばかりでした。
信者でないのにおかしいと思われるかもしれませんが、一人で新約聖書や聖書を読むことで教えや気づきを得られることもありました。
私にはキリスト教徒として覚悟はできませんでした。
でも、キリストのことは好きです。
お読み頂きありがとうございました。